童貞とD.Tとダイナミズム

  
ここんとこ、ついつい物事を形容するのに金角ことゲッツ板谷氏の「バカの瞬発力」という言葉を使ってしまうんです。
人から「バカじゃねぇの?」と思われてしまうエクスキューズがついたどうしようもなく突き動かされる衝動と行動を一言で称するのに便利なので使ってしまうのですね。
まぁ10年前ぐらいに、
「自分の脳味噌で腐ってる部分なのはわかってるけど刺激されるとどうしようもなくなんともいえない幸せになってしまうファクター」
と、わざわざ言ってたのが、今は「萌え」の一言で済んでしまうようなもんです。

その「バカの瞬発力」と同じぐらい使ってしまうボンクラ用語に「D.T」があるワケなんですが、定義や仔細については名付け親にして著書もあるみうらじゅん氏と伊集院光氏に任せまして、感覚的にわからないと「D.T」の原語たる「童貞」との境界線が非常に曖昧で同義語として使われてしまうことが多いと感じるのです。
非常に広義化してしまい意義そのものが曖昧になってしまった「オタク」と状況は反対ですが似たようなカンジでしょうか。

と、かたくさい前置きは横に置き。
先日、職場のボスとの会話の中で、そんなどーでもいいことを考え起こさせる話題がありまして。
ボスも高校時代はATGやさそり座に通いまくって自主映画撮ったりしていた絵に描いたような映画ボンクラだったわけでして時々映画の話題にもなるんですわ。
で、ビデオのキャプチャやってたボクにボスが「この前ちょうど『タクシードライバー』を観なおした」という話題を振ってきたわけです。で、「スコセッシという監督の映画には面白くないというわけではないんだけど、どうもダイナミズムが足りない」と評しまして、「ああ、言われてみればなんかそんなような…歳を経るに連れて『タクシー〜』も観るの辛くなるし」と思いつつも、話を広げる方向に向かおうとスコセッシ擁護を返して、アメリカンニューシネマの話や黒澤明作品のダイナミズムとかの話に広がっていった。
そして、いつのまにやらR&B中心の音楽話になって、さらに何故かボスの普通の人には耐えられない超鬱話の聞き役になっているといういつもの展開(笑)。

でも、なにかスコセッシの「ダイナミズムが足りない」の評が引っかかりつつも、ボスがドキュメント映画のインタビューで席を離れたので、やっとこさ本分のキャプチャした映像の粗編集にかかり始め。
で、ふとその「ダイナミズムが足りない」を表するのにハマる言葉が浮かんだ。

「スコセッシの映画は童貞臭い」

自分の持ってたフィーリングが具現化されたのでちょっとドーパミンが溢れ出した(でも確か町山&柳下氏も書いてたような)。
そこで最初の「童貞」と「D.T」の話に戻るのだ。
きめ細かい心情描写や情景描写や鬱屈した空気やリアルな妄想パワーは感じるのだが、「どこまでいっても6畳間の中」な感じ。そして最後はゴミ箱の湿ったティッシュ
そんな風に感じるのだ。
批判してるわけではない。そんな描写は「モテ」とは真反対の青春を送ったほぼ全員(たぶん)のボンクラに、シンパシーとクールを感じさせ、同化させ、ブルース・リーのポスターの隣にトラヴィスのポスターを貼り鏡に向かって「俺に言ってるのか?」と繰り返すのがオトコとしての通過儀礼になっている(たぶん)。

繰り返し繰り返し見てマネをしまくった、
はずが10年経って観返してみると、「イタい」イタいのだ。
確かに肉体的には童貞は捨てたのだが、やってる行動や精神レベルは10年前と変わらない。
そして相変わらず「非モテ」。

変わったのは6畳間の中のイタい妄想力が自主映画作ったりやら格闘技愛好会旗揚げして自主興行やったりバカ映画・バカ古本発掘したり漫画描いたりやら文章描いたりやらに発散されていたのだ。
そして「非モテ」であることにももはや開き直り。髪の薄さにも。
人を笑かして自分が楽しくなるには自虐も厭わず。

岡村(靖幸)ちゃんの曲があんなに童貞臭いのに素晴らしいのは女々しいまでの開き直り(いや本当にそう思ってるんだろうケド)があるからだ。
笑っちゃうぐらいにストレートに、いや、やり過ぎ?ギャグ?ぐらいまでに日本語として口語として詩として吐露し極上のポップ&ファンクに昇華させたからなのだ。
まぁ天才なので。きっとクスリの力借りなくても。

これをスコセッシに戻してみよう。
一番形容し易いのは、もう一人、同じイタリア系のシルベスター・スタローンという30手前のうだつの上がらない俳優を連れてくることだ。
ポルノ男優もやってたから肉体的には非童貞だが、口も障害で引きつって演技も上手くいかない男。
この二人にお題「ボクシング映画を撮ってみましょう」。

スコセッシは「ボクシングといえばギリギリまでのハングリーな勝負の世界。わかる、わかるよ、その禁欲的な生活…モテたくてもメガネチビじゃぁ…よし、それを徹底的に緻密に描写してやろう!もちデニーロで!」。

かたやスタローン「うぉぉ、来年で30だ!金もねぇ!イタ公じゃホワイトな職もねぇ!畜生、宵越しの金なんてもってられるか!ボクシング観てスカッとしてオ○ニーしてさらにスカッとして寝るか!!」と思っていたかは知らないが「モハメド・アリ対チャック・ウェプナー」戦を観戦するや大感動、オ○ニーも忘れ一晩で脚本を書き上げた!
いや、脚本というか普段の自分を書いた日記、かつ、いつもの妄想!
主人公?もちろんオレだぁぁ!!金はねぇからエキストラ使いまわし!!

で、できましたのが、
スコセッシ「レイジング・ブル
スタローン「ロッキー」

両作品、アカデミー賞を取りましたが、なんかこれが「童貞」と「D.T」の判り易いんだか判りにくいんだかわかんないけど具現された違いかと思ったり。

さて、
どっちに「映画としてのダイナミズム」を感じますか?
どっちに「ボクシング」を感じますか?
どちらが「童貞」で、どちらが「D.T」だと思いますか?


とか長々書いてきましたが、ちゃんとスコセッシもマイケル“すぱ☆すた”ジャクソンとガッチリタッグで「Bad」というダイナミズム溢れるPVを作っております(withウェズリー“寿司食うよ!”スナイプスの空耳付きで)。


そしてスタローン。
還暦過ぎても「ロッキー」と「ランボー」を見事(=ムリヤリ)にこなし世界中のボンクラども(過ぎた年月と同じくもうみんないい歳)に感動と「D.T」イズムをテメェのカラダはって示している。
世間の常識は別にしても。
そしてボクらは非情な現実をしっかり見つつも妄想ともつかぬ夢を見て明日も生きる。