ま、最近の格闘技興行あれこれ

xxx1shot2kill2007-01-03

ここんとこデカイところに限って何かと荒れている格闘技興行について一言。


まず、大きい舞台のリングには、必ずしも「強い」だけの選手が上がれるというわけではないこと。
興行であるからには金儲けなんだから、ビッグネームと闘うには、スポットライトの当たるリングに上がるには、それなりに「名前」と「集客能力」が無ければ駄目だということになる。
悲しいハナシだが現実でもある。
「ヤオ」「ガチ」の話はちょっと待って欲しい。確かに昔に比べれば「強さ」により重きが置かれるようになってはいるが、スポンサーが金を出し、メディアが付き、イベントとしてビジネスとして成立させるためには、前記の条件が不可欠である。


努力だけでは浮かばれない、ある意味「選ばれし者」なのである。


だが、「選ばれし者」はその恩恵にただ居座っているだけでいいのだろうか?
それには大きな責任が付随している。
そこに至るまでに「強さ」だけではない諸事情で振り落とされた「選ばれなかった」戦士たちの死屍がかの人の足元には埋まっているのである。
そしてお金を、時間を、その他諸々を支払ったファン。ファンもまた、「選ばれなかった」者である。それでこそ「選ばれし者」に夢を賭けるのだ。
これらに対し、「選ばれし者」はプライドと責任を持って闘わなければならないのではないのではないか?


また「選んだ者」もその責任があるのではないだろうか。
「選ばれし者」を「選んで」舞台に乗せること。その時点で責任は発生すると考える。
「選んだ者」も「選ばれなかった者」に対し、プライドと責任を持ってその闘いを送り出さねばならない。


まあ、ここまで言えばあとは言わずもがなだろう。


格闘技とは、体一つで人間と人間が1対1で直にぶつかり合い、相手の存在を叩き潰すものである。
同じ体という器が、どう動いてどう相手を料理するのか。
人間いや、生物としての本質がそこに現れるのだ。
だからこそこのジャンルは、その「凄さ」を見ている者に直接的にブチ込むのだ。
「強いことはそれだけで素晴らしい」と板垣恵介は語る。
「強い」ことは「凄い」ことなのだ。
我々はその高みに上がれないジレンマを「凄い」ものを見ることによって充足させるのである。
だからこそ戦士たちの努力に対して、我々も少しばかりの代償を差し出すのである。


ありのままの「凄さ」を美味しく我々に。


「凄い」ものをボクは見たいんだ。
そしてボクは我侭だ。



かつて情報希少の時代に生きてきた身としても一言。


「騙す」なら「上手く」「騙し」て欲しい。