「異形」の「覚悟」〜ナンシー小関問題が教えてくれたもの〜

この問題は、負の根が深すぎて、ただ「不快」「どうしようもない居心地の悪さ」という「収まりのいい(byナンシー関)」意見は書けなかった。


昨今のワールドカップやPRIDE関連のファンの過剰反応に辟易していたところもあった。


そんな最中、間の悪いことにナンシー関の本を読み返していた。
そんな中、思ったことなのだが、ナンシー関は、自分を「異形」「規格外」と規定し、世間体を捨て去ったスタンスから、「世間を語る」「彫る」ということが、唯一無二の芸風に繋がっていたと思う。
それは、自分自身を語るときのナンシー関の発言の端々から感じ取れる。知らず知らずのうちに売れっ子になってたというバツの悪さをナンシー関自身も感じていたことが、どことなく伝わってくる。
ナンシー関の作品は、この世にはいないはずの自分自身が語る、ある意味「神の視点」であり、そこにファンたちは安心して「基準」を任せられた所以でもあると思う。
それはナンシー関の「覚悟」でもあるといえる。
小関氏、そしてその取り巻きは、その「覚悟」があるのか?
その出発点をも理解せず、「オマージュ」「リスペクト」という言葉を利用し、その上澄みだけを刎ねる行為を積み重ねる。ましてや「金を取る」という行為を付け加え。


「コラージュ」「パロディ」「オマージュ」という行為や作風が悪いとは思わない。むしろ好き。ボクもやりまくってるし。
小関に関しては、その域にさえ達しておらず、「オマージュ」という免罪符を悪用してその行為を商売にしている。
ボクがナンシー関のファンだからこんなに過剰反応しているのかもしれないが、正直、熱狂的ファンに刺されても文句は言えないと思う。それだけの「覚悟」があるのか?ないのなら、こんなことは止めとけ、と思う。


そして、この問題で気付いてしまったこと。


ナンシー関そのものが「信仰の現場」になっていた、ということであり、信仰の対象になっていたということだろう。
みんなが気になっていても言葉にならないもの、「それが何か」を与えてくれる「不確かな時代における一つの指標」となってしまっていた、ということだ。
本人はとても嫌がるとは思う。しかし、それだけの存在だったのだ、ナンシー関は。
「ポストナンシーはいない」ということを、この小関事件は教えてくれたような気がする。
悲しいことだが、ナンシー関は唯一無二であり、そして偉大であったのだ。
ナンシー関亡き今、我々ファンは、ナンシー関と小関を混同される(長州力が「ああ、小力がマネしてる人ね」と言われるのと同じが如く)ことがないようにしなければならないのかもしれない。