世界の終わり。

xxx1shot2kill2005-05-08

ここんとこ友達に舞台のビデオを借りまくってます。
つっても大川興業大人計画なんですが。

で、今回取り上げたいのは大人計画
「熊沢パンキース03」
この舞台、「木更津キャッツアイ」の元ネタとなっている舞台でして、もちろん脚本・演出は宮藤官九郎
架空の町、熊沢を舞台にし、謎の殺人細菌「パーキンス」のキャリア患者を探しにやってきた細菌学者と、熊沢という町から抜けられず草野球と酒と同性愛・近親愛にのみ耽溺する若者たちとの交流とその顛末が描かれている。
今年見た作品では映画も含めてピカイチだった。

今や有名となった「木更津キャッツアイ」とその設定は似通っているものの、この舞台の存在は光と影だ。
「木更津」では不治の病となったぶっさんは死に直面してもあくまで明るく、木更津という町にも大いなる(寂れた)田舎という雰囲気は漂っているが、そこには悲壮感というものが描かれない。

しかし、この舞台は違う。
熊沢という町は特異な風習が跋扈し、登場人物はそこから逃げられない人生の転落やトラウマを持った者、または極端に頭が悪い人間のみ。彼らが集まるのは町の片隅にある居酒屋。彼らは野球とその後のそこでの酒のみが生きがいである。町から出る手段は町を捨てるか、それとも野球で甲子園に出てプロに進むかのみだ。けして彼らは友情だけで結ばれているわけでは無い。疑りあい、足を引っ張り合い、そして同性愛、近親相姦も行う。

この構図は何かに似てないだろうか?

ボクにはアメリカ中部に住むホワイトトラッシュに見えてしょうがない。たとえ意図は無かったとしても、東北の片田舎に育った宮藤の原風景として反映されたとしても不思議は無いと東北出身のボクには感じられる。

町には郊外の巨大量販店。そこが唯一の都会。
現代日本にもアメリ中南部は広まりつつある。

※ここからネタバレあり!注意!

パーキンスキャリアは次々と広がる。疑心と猜疑の中、そこでやることはやはり野球のみ。性感染するパーキンスの生態から狭い共同体の中での爛れた人間関係も次々と浮き彫りになる。

主人公の細菌学者は元野球選手であったがために不思議なシンパシーと己の細菌学者としての栄誉のために最後までこの町に関わってしまう。

ついにパーキンスは突然変異を起こし空気感染に至る。
自衛隊は町の封鎖を決行する。
そして登場人物たちは感染へと至る。
発病する登場人物たち。
しかし、彼らは今日も毎日と変わりなく野球へと興じるのだ。いつもの店に集まり…。

この結末を見てボクはエラく感動するとともに恐怖を覚えた。
と、同時にどこかで見たデジャヴも感じた。
そう、これは初期ジョージ・A・ロメロの映画たちじゃないか!
閉鎖された町の中、何かが狂い始める。しかし住む人たちは何も変わりはしない。永遠とその日常が繰り返されるのだ。

そう、これは世界の終わりの風景。
昨日と変わりはない。そして明日も変わりは無い。そして終わりも無い。退屈で退廃的な日常が繰り返されるだけ。

核爆発や人々の大量死、戦争などで訪れる終末などに本当の怖さはないのではないだろうか?
繰り返される日常、退屈、退廃、そこから逃げ出せず娯楽のために生きる毎日。時間を消化する毎日。それの永遠の繰り返し。

そう、そんな世界の終わりはもう訪れている。
一部の人を除いた人たち。この現代消費社会に生きる人たち。
これを読んでいる貴方にも。


<ここまで書いといてなんですが、作品自体はメチャクチャ笑えて楽しめます。あしからず。>