ナンシー小関騒動。その始まり。

さて、質問。
ナンシー関を知っていますか?


ナンシー関(ナンシーせき、本名:関 直美(せき なおみ)、女性、1962年7月7日 - 2002年6月12日)は、青森県青森市生まれの消しゴム版画家、コラムニスト。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC%E9%96%A2
世界に類を見ない消しゴム版画家として活躍するとともに、TV、世間に対して不世出と言われるほど切れ味鋭いコラムを書いた才女であり、多くの連載を持つとともに熱狂的なファンを獲得した。しかし、惜しくも2002年、急逝した。


そして今、ナンシー小関と名乗る人間が現れていることは?


ナンシー小関
ナンシー関氏を心からリスペクトするナンシー小関が気になる著名人の顔面をほぼ毎日、別に大した目的もなく作り続ける似顔絵スタンプコミュニティです。
スタンプの著名人にコメント頂ければ幸いです。
TVウォッチャーの方々のご参加お待ちしております。
ナンシー小関作成のスタンプ画は全てオリジナルです。
mixi内ではご自由にお使い頂いて結構です。
プロフィール画像に使って頂けると非常に嬉しいです。
(以上、mixiナンシー小関コミュニティより転載)


この小関氏は、ナンシー関女史のスタンプをパロって、消しゴム版画ではなく、パソコン加工で消しゴム版画「風」画像で一発ネタをやる、というスタンスであるのだが、当初、mixi内部のネタコミュとして、賛同するものは参加し、内部のお遊びとして、ナンシー関女史のファンも傍観している、はずだった。


ある出来事からこの状況が一変する。
ナンシー小関氏がこのコミュを本として出版したのだ。


商業行為となったことで、ナンシー関女史のファン、そして関係者たちは怒った。
各方面で小関氏への攻撃が始まったのだ。


ナンシー関への冒涜」
「生前ならまだしも死後にこういうことを始めるなんて」
「消しゴムではなくパソコン加工でやることなんて意味がない」
「面白いならいいものの面白くない」
等々等々…


対する小関氏側も飄々とした対応をしたものだから、火に油を注いだ。


ボク自身もナンシー関女史の熱狂的ファンであるからして、怒りを感じたのではあるが、一連のバッシングには何か「芯」と呼べるようなものが無いような気がして、イマイチ何か言おう(書こう)としても憚られる感じがあった。
しこりにも似た感じがずっと残っていた。

「異形」の「覚悟」〜ナンシー小関問題が教えてくれたもの〜

この問題は、負の根が深すぎて、ただ「不快」「どうしようもない居心地の悪さ」という「収まりのいい(byナンシー関)」意見は書けなかった。


昨今のワールドカップやPRIDE関連のファンの過剰反応に辟易していたところもあった。


そんな最中、間の悪いことにナンシー関の本を読み返していた。
そんな中、思ったことなのだが、ナンシー関は、自分を「異形」「規格外」と規定し、世間体を捨て去ったスタンスから、「世間を語る」「彫る」ということが、唯一無二の芸風に繋がっていたと思う。
それは、自分自身を語るときのナンシー関の発言の端々から感じ取れる。知らず知らずのうちに売れっ子になってたというバツの悪さをナンシー関自身も感じていたことが、どことなく伝わってくる。
ナンシー関の作品は、この世にはいないはずの自分自身が語る、ある意味「神の視点」であり、そこにファンたちは安心して「基準」を任せられた所以でもあると思う。
それはナンシー関の「覚悟」でもあるといえる。
小関氏、そしてその取り巻きは、その「覚悟」があるのか?
その出発点をも理解せず、「オマージュ」「リスペクト」という言葉を利用し、その上澄みだけを刎ねる行為を積み重ねる。ましてや「金を取る」という行為を付け加え。


「コラージュ」「パロディ」「オマージュ」という行為や作風が悪いとは思わない。むしろ好き。ボクもやりまくってるし。
小関に関しては、その域にさえ達しておらず、「オマージュ」という免罪符を悪用してその行為を商売にしている。
ボクがナンシー関のファンだからこんなに過剰反応しているのかもしれないが、正直、熱狂的ファンに刺されても文句は言えないと思う。それだけの「覚悟」があるのか?ないのなら、こんなことは止めとけ、と思う。


そして、この問題で気付いてしまったこと。


ナンシー関そのものが「信仰の現場」になっていた、ということであり、信仰の対象になっていたということだろう。
みんなが気になっていても言葉にならないもの、「それが何か」を与えてくれる「不確かな時代における一つの指標」となってしまっていた、ということだ。
本人はとても嫌がるとは思う。しかし、それだけの存在だったのだ、ナンシー関は。
「ポストナンシーはいない」ということを、この小関事件は教えてくれたような気がする。
悲しいことだが、ナンシー関は唯一無二であり、そして偉大であったのだ。
ナンシー関亡き今、我々ファンは、ナンシー関と小関を混同される(長州力が「ああ、小力がマネしてる人ね」と言われるのと同じが如く)ことがないようにしなければならないのかもしれない。